幕府くんと、一区切り 宮崎駿 出発点 ストーリーの幹 ゲームでいじめられて

えー、幕府くんがmixiから僕を追い出した。溢れ出る悪意に、なんだかニヤついてしまった。おわー、醜悪。mixiで友達をつくらなかったぼくに、友達0という警告メールがやってきたため知った。朝早くにきたメールだった。早朝という気持ちのいい時間、さわやかな時間、似つかわしくない時間にわざわざ。それとも、何気なくmixiをやっていて、ふと気になり消したのか。
僕を消すにあたって、どの程度の手間をかけたのか知りたいと思って調べてみた。作業自体は簡単なもので、一覧に並ぶ名前に削除のチェックをするというものだった。俺を消したか、そう思うとやっぱり口元が弛む。アメリの表紙のように笑ってしまう。どんな喜びだろう。へー、そんなこともすんねやっていう、野次馬?当人だけども。そんな喜びである。いつも小奇麗なあの子が、そんなドギツイことを・・・。別にキレイでもなかったけどな。


映画の幹を設定する段階で、幹の中心には、物事に対しての価値観とかが現れるんやって。今の社会の悩みは、地球環境の限界とか壮大なものに悩む一方で、となりの美人に喜ぶ。そういった両極端の感情をどのように統合して捉えるか。それが世間で考えられていることで、それに苦労して、なんとか答えをだそうとするのがプロット作りやねんて。

世間で大きく取り上げられている問題に、解決を提示し続けられる。解決まではいかないまでもいい案を出せるのならば、安定した人気が得られるということだ。
作品の根幹には価値観があって、僕の思う良心的価値観からいって、少女は物語のラストではこうでなければいけない。価値観には、作品の起承転結から、経済、社会にたいしてどう思うか、いろいろなものが入る。ここいろいろを、多く高く持っていると、バックボーンになる。うそをほんとにする際に、出せる手数が増える。人の意識を集める問題を捉え、その回答を導き出すにしたって、優れた価値観、思考力が必要。大学へ行っといで、となる。アニメーターに高校を出て入って経験を積んだとして、それがアニメーターとしての完成にならない、ってのが印象的。

雄覇天地で、自分の持っている鉱山を、特定プレイヤーに奪われまくる。履歴で見ると、同一人物に4回も負けているではないか。ちくしょー。くやしいぞっ!先頭履歴をみると、自分が与えたダメージの4倍食らってた。完全に格上である。いじめだ。
こういうときは、読書に逃げ込む。へへん、お前がしょーもないゲームをやっているあいだに、僕は崇高な読書に励むのだ。自己肯定である。いつもの読書よりも価値が高い気がしてくる。
僕は、人が騒いでる中で勉強するのが好きである。しかし、人が頑張る中で自分も頑張る姿には、あほらしいと感じてしまう。
ともかく、しょうもないことをする人を横目に確かめつつ、自分は高いところへ登る。ええ気持ちや。こういう勉強方法があったとは!・・・やなやつやな。ウフフ。