ツイッター位置づけ

うまく使えるのか。更新がはやくて付きっきりになるんじゃないのか。記録として価値はあるの?

記録はわからん。今のとこ、何だろう。人とのつながり?→自己肯定?
一言っていうスタイルは、実際の会話に必要な発言力を養うんじゃないかな。願望的。
どういうタイミングでやっていいものか。わからんなー。授業中の合間、暇なときに人にバレぬように見るとか?
情報が入ってくる媒体としての価値は高い?いやー、日常が楽しい人なんていんのか。つぶやき。所詮つぶやきよ。時間コストに見合うリターンはあるのか。

とおにかく!新しい体を見つけたので、好きに振舞うがよろしい。どうせ自分とは無関係である。ひとり勉強ばかりだと、どうにも膠着しがちというか、サボりがちなんだが。文句なしで楽しいって思うところを持つことで、欲しい時に満足が手に入ればと思う。
多くの人がやってるからな。多くの人の考えを知るいい機会になるんじゃないかな。


日常の発見とか、ちいちゃいことから書けるのはいいな。いいのか。受け手がいてはじめて、書いていいってなるのじゃないか。朝の空気がつめたいとか、そういうことを読むのは好きなんだ。

ブログよりも日常生活に近い位置にある分だけ、人間に近い気がするがどうか。例えば腰痛いとか、勉強だるいとか。そのレベルでは普段なら排除されてた感情が、Twitter上でなら記録され得るわけ。かっこつけたあいつも可愛いあの子も、中身はそう変わらんなって思えたらそれは収穫だと思う。怖い怖いおしゃれ人たちに対する耐性を身につける・・・。


人目に付く以上、こんなことばっか書いてっとうわあって感じだよ。ブログとTwitterの人と僕は別人だと考えて、さらにブログの内容とTwitterの内容も別人だと思おう。精神分裂だ。


日常にある小さなドラマを記録できる?リアルタイムで、かつ手軽だから記録に手が伸びやすい。なお気になるならあとでブログにまとめればいいが、一度書いたものをもう一度書くのはとっても面倒なんだよな。悩みどころである。

実際の友達かどうかは別にして、それでも自分というものが肯定的に受け入れられている場を持つ事自体がその人の行動を支えるというか、活動的になることをより容易にする役割があると思う。例えばリアルで喧嘩したときに、自分が嫌になるのを防ぐ役割をするだろう。自分が一人ぼっちのとき、相手の評価が自分の価値を決めるすべてになってしまう。そうそう、価値の尺度は多くの人から取ったほうが真実に近いんじゃないかな。一人しか友達がいなくて、その友達にうぜえって言われたら、自分は100%うぜえでしかなかったが、その同じ行動を面白がってくれる友達がいることを知ったから、まあいいかって思う。そういうものを作るのが目的か。Twitter。学校の友達には教えられんが。恥ずかしすぎる!
そもそも、友達が一人とか二人とか、たまにいなかったりするっていうのがダメダメなわけだが!しゃあないな!それは!いないんだもんよ!俺はカオルに憧れている!