汚れなき、恥ずることのない人生を!! 高校教師

金とかいうわけのわからんもののために働くことに比べ、人に教えることのなんと人間的であることか!

やりたいことが曖昧なまま、働くのが当たり前なのか。それでは幸せは手に入らない。やりたいことが明確にあることが、ないなんて、死路なんじゃないの。なんでわざわざ自殺する。好き好んでそんな地獄へ。スタンダードが地獄。何を勘違いしてんだか。

やりたい、これがしたいといものを掴んだ。自分というものに真剣に向き合い、これじゃあいけないなと行動してきた結果、それなりにこだわりや好みができて、芽を出した。正しい一歩は踏み出せた。あとは加速度的に魅力が増すばかり。長門役を得た茅原実里のよう。おれ、茅原さんのインタビュー、舞い込んだやく、その人気についていくばかりだっていうシビアな分析をする実里さんが好きなんだ。それでいて、ダンスのPVは当時、最高傑作だと思っていたと。そういう感性も備えているとこがすてきすぎる。

自分のパフォーマンスを評価するのは対象者だけ。損得感情で評価されたり、わけのわからない圧力などないのが素晴らしい。いいものはいい。ソクラテスと生徒たち、ヒストリエのような雰囲気のなかで生きられたら

能力があることと、働く充実は別物。俺はね、例えば茅原実里のように、夢や理想を追った生活がしたいんだ。たまたまそのためのツールがないから企業に流れるか、せめて安泰をと思っただけで、企業で金を設けることなんか本当はしたくないんだ。けれど安泰と充実もまた、別問題であることがわかった。安泰してれば幸せ、ということでもない。満足がなければ、シに際して自分は何をしたのかと問うたとき、答えに窮する。やりたいことをしてればよかったと、後悔する。高校で教師やって、何か理想を追い続けよう。良い子を育てるでもいい、いい授業をするでも、部活で優勝を狙うのもよい。すべてやったっていい。

仕事の理不尽にまみれ、疲れきった彼女からして、理想を追って照った僕は魅力的に映るのかもしれない。仕事をは、人生を選ぶことだから、そういう魅力のあり方もある。

わけのわからん約束を取り付けたり、自分の知らないところ、実感の外で金のやり取りがあったところで何が楽しい?一から十まで、製品を仕上げるなら幸せだろう。実感が、対象が自分の手の届く範囲、意識の範囲にあることがいい。人形作りに似ている。人形を作るのが楽しいのは、そこに完成があるからだ。そこに理想があるからだ。完成と理想を、見つめ合わせる。腕だけ、柱だけを作らされ続けるからつまらない。パパラギに学んだ。家を建てるのは、本来楽しいのだ。分業なんて不幸でしかない。効率を求めることが幸せにはつながらないと、多くの人は知らない。

バイトで理不尽に扱われる。キーチでの社会の重圧、仕方のない汚職とそれに立ち向かうキーチ。就職の本、適性、やりがい、幸せについての考えから、教師
そう、あと生活はアートでも、仕事について、人生について考えを改めさせられた。

お金を求めて、お金を求めてだけで企業に行くのだろうけれど、そこに幸せはない。幸せは、自分でやりがいを見つけること。やりたいことをやること。つまり、プロであることから生まれる。

日本は確実に美味しいが、企業というものに絞て考えるなら必ずしもそうとは言えない。過剰や競争、無理のある要求。理不尽じゃあないか。そもそもない需要を作り出そうとしているんだ、ないものねだりなんだ。必要、必要不可欠なものなんかもう、ほとんど存在しないんだ。企業なんかいらない。
日本という国の性質上、上司は部下にいばりちらす。その部下もまた部下に威張って、威張り威張られ、みんながみんな不幸なんだ。そこを抑制するシステムを持たない。そういうものだという空気ができてしまうと、訂正をかける倫理がない。行動の軸が、世間なんだ。そこが良くも悪くもあるのだけれど、とくに企業で働く場合、悪い面ばかりが目立つ。

おれ、効率を求めるのがもう、嫌いなんだ。不幸の元だから。

自分のした苦労を、人にも味あわせたがるのが日本人。外人はこぞってサボろうとする。サボる方がいくらも幸せだ。日本人グセになんか、付き合ってられない。
日本人の協調性、奴隷根性を持ち合わせたくないので企業には行きません。不幸せだ、あんなもん。どっかのえらいおっさんだけがいい目を見るためのシステムだろ。そもそもあれは、幸せのために出来とらん。

なんで、こんな当たり前のことが言えないのか。なぜなら、多くの人がその渦中にあるからね。自分の人生失敗でした、なんか死んでも言いたくない。だからみんな痩せ我慢。なんとか前向きにね、いじらしい。
けど、その最も激しいところからはもう身を引いたから、好き勝手言わせてもらう。死ぬとき、もっとも多くはなされる言葉が、やりたいことをしてればよかった。

そもそも、働くことは地獄だと、みんな知ってる思ってる、なのに避けられないから働く。そしてその苦労を他人にも求める。やなとこだな。いやならやめたらいいのに。

会社で働く人みんな、幸せに対する考慮がない。幸せはどこだ!?そんなえばりちらしたおっさん一人に仕えてどうする。そんなことをするくらいなら、ひとりひとり違う、子どもに力を尽くしたい。

俺ね、自分の中の葛藤、嫌なことを仕方ないからしないといけないとか、やりたいことがわからないとか、そういうとこ乗り切った。何をしたらいいのか、自分の中で定まってるって、すごいいい。前々から、企業のどんな仕事もやりたくないことなんかわかりきってた。企業説明のどの項目も、自分の興味を引くことなんかない。あんまりにも、自分という人間の、肉体的な感覚から遠いんだすべて。わからんもんなんか、どうでもいい。

教育はその点、しっかり子どもと自分である。自分の意識はそんなに広くない。せいぜい目に見えるものくらいしか考えられない。目に見えるものから、その原因を追求するのは楽しいけど、それも自分がやりたい範囲でしかできない。興味もないモノやカネのやりとりに、成果が出せるとも思わない。

ここら辺乗り越えるとき、みんなやってるんだからとか、食べていくためには仕方ないとか、生活がかかってるとか。答えのないままわけのわからない作業をすることに追われて追われて、気づいたらベッドの上で死ぬ間際。結局何がしたかったのと問うて、そこではじめて答えのないことに気づく。やりたいことをやってりゃよかったとなる。

仕事とプライベートをわける。そもそもこんな構想自体がゆめ物語なんだ。機械じゃないんだ、そんなに今はプライベートなのでニュートラル、仕事の負担はすべて忘れられます、とわかりやすいことにはならない。仕事がうまくいかない人間は、プライベートもうまくいってない。仕事って人生のほとんどだ。そこうまくいってることが前提になって、プライベートも引っ張られるように充実するってのが現実。
そもそも、生活はアートなんだ。旅行、毎日毎日耐えるばかりの日常で、そのあとの旅行だけが楽しみだなんて人生はつまらない。楽しい旅行の最中にも、ふと日常が恋しくなる、そんな生活を目指すべきだと。真実。やりたいことだけやってればいいのさ。やりたいことを、せめて七割は持ちたい。今、それが低すぎる。それが当たり前になってる。アホか。