美しいは個人の価値観

だから美しい自分ってのはやめて、正しいにしたほうがいいと特別活動で訂正されたけど、いいじゃん、美しいで。

誰も言語学をやってるわけじゃないだよ。常に論理的に正しく話すことに、意味なんかない。考えが伝わればそれでいいのだ。言葉を論理的に使うのは、自分の思考を伝えるときに、相手にそのまま伝わる確率が高いってだけじゃん。

あの場合、教育を受けない、生まれたままの綺麗な自分、美しい自分っていう言い方、そんなに悪いか?発言をする上で、面白がってもらうためにちょっとしたお遊びじゃんよ。けど、綺麗な自分ってのはいいけど美しいはちょっと違うかって、書いてて思った。

ただ、言葉の厳密な意味なんか、問題が起こってないのなら別にどうでもいいじゃんよ。そもそも、言葉の定義自体が人によって違ってくるんだから、言葉をどれだけ正しく使おうと、あんまり意味ない。それよりも、考えを伝える手段として有効なものはたくさんあるだろ。言葉の意味が人によって違って来るってのは、人によって言葉の印象が違うでしょうっていう広義の意味でだが。言葉の意味は、それぞれの、例えば読書体験とかでも微妙に違ってくる。

そもそも、そんなに厳密に言葉を使わないと伝わらない状況ってあるのか。言葉の意味にとやかく言う人は、木を見て森を見ずなわけ。大事なのは主張でしょ。主張を正しく伝えるために、話者が気を遣うのはわかるけど、お前の意図はわかるけど、そんな言い方じゃあらぬ解釈を招くぜってのは蛇足じゃね?とくに議論においては。あなたの考える道徳についての説明がないので、あなたの主張一切は理解、承諾しかねますってのは、あまりに乱暴ではないかね。

最初に定義をおくのは、そうすることで自分の意見が伝わりやすいっていう算段でしょ。それをなぜか、必須事項として捉える人が出てくるんだよな。中身をみずに形でしか考えない人じゃないのか。定義が曖昧だからわかりませんじゃなくて、定義がなくても主張は提示されてるのだから、読み取る努力をしてくれよ。意味、意図を汲み取る努力をしてくれ。