カネの話

この世で一番大事なカネの話

えー。自分は底辺なので、職につけない気がする。これは強い確信であって、みんなそんなことないと言うけれど、こういう勘は、不思議と当たってしまう。

自己評価が低いから、ひどい状態でもまあいいやと思ってしまう。こんなもんだろう、が人より低い。本来ならもっと出来たはずのところで、下回る。そしてそれに気づかない。それが底辺ということだ。
下でラインを設定してしまうから、少しでも失敗すると、もう破綻する。ふつうなら、こうなると危ないからと言って予防線を張っておくものだが、大したことない自分にしてはよく頑張っていると、本人は満足してしまう。

貧乏は連鎖するというが、思考回路に貧乏が染み付いているからだ。ちょっと頑張ってみたって、すぐに落ちるのは普段の行動が貧乏性のものだからだ。

不幸な人はずっと不幸で、幸福な人はますます幸福になる。それは、不幸が自分の意識できるところよりもより深く入り込んでいて、自分の行動をすべてそこからスタートさせるからだ。

抜け出すためには、そうでない人の真似をしなければならない。どこがどこまで腐っているのか、腐った本人には意識できないことが多い。無意識に生まれる基準、それ自体が貧しいのだから。
豊かな人と一緒にいて、驚きと共に新しい基準を見つけなければならないと思う。そうすることでのみ、どうにか貧困から脱出できる。

自分は豊かなのだと、豊かになるべきだと考えることも大切だ。

どれだけ意識しているのかは知らないが、人は一番見知った世界を安全と考えるし、模範にして生活を作る。幸せな家庭というのは、裕福な家庭というのは、様々なことの積み重ねで生まれるものであり、長い長い蓄積の結果だ。貧しい家の人間が、貧しい家の失敗から学び、多少の工夫を施したところで、そこはまだ貧乏の範疇を出ないのだ。

外に学べ。実在する、そこに確かにある豊かさを真似る。病巣がどこまでか意識できない以上、ただ真似ることの比重を大きくするべきだろう。自分の行動は貧困から来てるので、やはり高確率で貧困を招くのだ。


金のある人には金が舞い込むと言うが、その家の習慣、考え方、行動様式が家に金を呼びやすいのだろう。元手がある、資金がある、チャンスが多いということも確かにそうだが、金のない家に突然に金が湧いたとしても、金は減る一方だろう。物質的に金があるというアドバンテージに加え、そこにはやはり、金をいかに扱うかのノウハウも、意識的無意識的にかは関わらず、伝えられているのだろう。



自分は相当、幸福オンチで学校生活もあまり楽しくなかったのだが、たつきさんと一緒にいると、たつきさんは無駄なことが多いなあと思わされることが多かった。しかしたつきさんにはいい事がよく起き、自分には何もない。自分はあまり関わりを作らないが、たつきさんは色々なことに関わることで、結果自分よりも多くのチャンスに恵まれるのだと気づいたのだが、振り返ってはじめて気づいただけの話で、自分1人ではこんな考え方は出てこなかっただろう。こういうのが、染み付いた貧乏と染み付いた幸福である。理屈ではないのだ、生きるとはこういうもの、と思い込んでいて、それがたまたま上手く行きやすいものであるのと、うまく行きにくいものであるだけだ。


理屈よりも、結果が出てることには従っておけばいいのだと思う。理屈は謎を解明してはくれるが、自分が立つ場所が未知だった場合、自分をいい方向に導いてはくれない。振り返って、あの行動は良かったからもう一度とは判断できるが、何かいいものが欲しい時、その方法を知らない時には、理屈から導き出される結論だけでは、弱々しい。無駄を排し、将来のために時間を使うとは一見理屈は通っているように思えるが、実は実りの少ない毎日になってしまうのだ。

毎日何かといろいろあり、成長を続けるたつきさんと、全く何もなく、かと言って目標も達成できないままさぼり、腐ってばかりの自分である。