学校でやりたいこと

正しくはないけど、こうはならないよなあって諦めるの、やめにしたい。そうやってあがくうち、自分でも出来ることってのが増えていって、卑屈に生きなくてもよくなると思う。今は、動いてみたいけど動けないっていうジレンマ状態のなかで、みんな愚痴ばっかり言って生きてるように思える。
仕方ないっていうが、仕方なくなんかない。まあ、会社に行ってて上司とお金だけがルールになってたら、そういう形になるのは仕方ない。そこではそれは、もう詰みになってると思う。会社に勤めてしまったら、そういう改革はもうない。学生のうちだな、自由でいられるのは。

このまだ柔らかい時期に、どれだけ。
いやあ、自分がやりたいことは、会社で働かない人間を作りたいのと違う。変なことは変だって言う人間、気に入らないことを直すために動くっていう発想のある人間を褒めたいだけだ。会社行っちゃうとどうとか、知らん知らん。まだ知らん。考えすぎても動けなくなる。実際に、ちょっとは動いてから、あらーここやっぱりうまくいかんなーってなってから、考えればいいじゃないの。


企業は、もっとお金を寄せ集めるために考えないといけない。一方、先生だったらいい方法見つければ見つけるほど、人のためになり自分のためになる。自分が面白いと思うことをやれば、同じ人間なので生徒も面白いと思うだろう。そこがいい。興味深いことができるのがいい。


学校でやりたいのは、変だなって感じることは変えてしまうっていうのと、面白そうだなって思うことは、実際にやってしまうってことか。
社長さんになりたい。ただ、倒産はしたくないし、お金を動かしたいわけでもない。先生いいんじゃなーい。

何か間違いがあった。今の日本の思考だと、適任じゃないってなる。こうであってほしいってのは、間違ってるよこうだよ、そうかそうかありがとう。こういう関係。


フィリピンの人は難しいことを考えない。神様が決めたんだからいいんだって、言う。自分は日本人なので、実際は神様が決めたんだじゃいんだっていいたくなるが、言ったところでどうなるというんだ。神様じゃないんだ、自分のせいだって考え始めてどうなる。辛くなる。それだったら、神様が決めたんだからって考えておしまいにして、あとは笑って暮らしたほうが幸せじゃないのか。


目標の達成はすべて高望みからはじめる。
日本人、完璧主義者だから、なかなか動き出せない。成長するためには、動くことが必要。すべて、可能性を考え尽くさなくても、動いたら必要なことはすべてわかってくる。それから考えても全然遅くない。
なのに、たいていの人は、上手にできないならやめようってなる。意味あるか?最初かっこわるくても、できるようになっておいたほうが面白くなると思う。


外国人は、自信家だ。うらやましい。自分に自信があるから、本当はそれほど上手じゃなくても、やってるうちに、動いてるうちに、本当に上手になってしまう。
日本人は、自虐家だ。できないできないと言ってるうちに、本当にできなくなってしまう。
さらに、謗り屋だ。できない人を見下す。なんて生きにくい、無意味な性質だろう。変えたい。


変えるためには、できないこともやってみるとできるっていう、実感させる場にしないといけない。それを自分のクラスでやりたい。やればできるを感じるためにクラス。失敗100の上に成功1ある。


こうやって、自分の意見を通すときに拠り所になるのが、説明能力だと思う。合理性。最もだとみんなが思えば、ルールが変わる。そうやってルールが作られていることを知らせたい。民会を開きたい。雄弁家を生みたい。批判をするときには、じゃあ代わりにどうすればいいの?もくっつけないとダメだ。それを常識にしたい。


常識を変えたい。①思ってばっかりで動かないのはよくないって常識、動けば変わるっていう常識と、②人はわかってくれない、は説明不足なだけっていう常識を作りたい。

サムライカレーのプロジェクト、日本でやりたい。カレーを作るわけじゃないけど、やってみれば何とかなるんだ、ていう経験。難しそうなことをやる。例えば、何か目的があったとき、頼みこむ経験。自分で考えて、ルールを作る経験。

③責任っていう常識を変えたい。ミスしたって、その人を責めるんじゃなくって、なぜミスしたのか、むしろいたわるっていう常識を作りたい。首相にしたってそうだ。失敗から学ぶ前に、一度のミスで交代させられちゃうんだもの。


みーんな、日本の考え方は古い、形式的だ、やりにくいっていう。言葉ばっかりは出てくるけど、実際にそれ変えるために動いてる人ってどれだけいる?結果から見れば、アホでも動いて何か変えた人のほうが偉いと思う。偉いってのは、生産的だっていう意味だ。
考えるってのは、次にもっといい行動をとるためにあるものであって、考えてるだけじゃあ意味ないんじゃないの。


みんなわかってないって時の、みんなって誰?仕方ないって諦めることは、自分もマイナスの圧力に加わってるのと同じ。プラスにならない限り、マイナスであるということ。
言ってもわかんないって言うけど、言ったことはある?
みんな愚痴は言うけど、動いてる人はいない。不満があるなら動けばいいのに。

日本的でない、日本では無理というが、本当か。無理なのは自分が無理だと考えてるからで
例えばクラスで発言がない時、発言すべきだと思うとは言うけれど、やってることはだんまり。

自分がクラスを持ったら、自分の意見で世の中は成り立ってて、合理的であれば自分でルールを形作れることを体感させたい。自治を促す活動をする。モデルはローマ。


自分で考えさせる授業ってのがあって、ルールは一つ。必ず理由を述べなさいというものだった。



考える力
先生目的。
より住みやすい日本を作りたい。日本はだめだってよく聞く。それを正すための動き。やりがいがありそう。
あと、ネタに困る事はないなあ。なんで先生やってるか。愚痴はこの世に溢れてる。

中学なら多感な頃に。高校なら落ち着いて、自分を探す時期にと言える。

伝えたいこと。
間違いは、問題ではないこと。
完璧でなくてもよいこと、動くことが何より大切だ。立派でなくてもいいし、正確でなくてもいい。動くうちに、立派にも正確にも完璧にもなる。動きさえすれば。
説明能力の重要性
幸せに生きること

日本では、一度間違えたら首、みたいな風潮ある。アメリカでは、間違いは成長の証として考えられる。

黒人の魂という本で、快活な黒人少年は、知識を積むことにいけ好かないやつになる話があった。

幸せでいられるなら、馬鹿であってもいっこうにかまわない。たいていの場合、馬鹿は幸せでいられないから問題になるが。

なぜ髪を染めてはいけないか。
なぜ先生は、髪を染めることを嫌がるのか。

そこに理屈があれば、
説明能力がルールを作る。

おおかみこどもの雨と雪
親戚は何もわかってないのに口を出す、ああ嫌だ、みたいなのやめろ。自分が説明できてないだけだ。

ここは説明国家である。説明できるものが尊重される。説明に従ってルールができる。

説明が今のものより合理的である場合、ルールは新しいものに従うべきだ。

擬似ローマ。クラスの中で、生徒は国民。
生徒はまだ未熟。私利私欲に走る可能性あり。
先生が模範を示す。ただしあくまで説明によってだが。質問を求める、反論がなくなるまで。


一番初めは、先生は何をするためにいるのか、伝える必要があると思う。明確な目的を持たないから、成果が上がらない。

簡単に言えば、幸せになるため。
持続的に、幸せに暮らす方法を伝えるため?

順番に当てたりなんかしない。そんな無味乾燥。苦情が来たら、それはつまり、自分の子供に注目しろって事だから、そうしよ。

クレームを悪と捉えるのがよくない。下手だからクレームが来たってのも間違い。目的があって来てるわけだから、相手の考えを汲み、こちらの考えを示すべきだ。



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